私は“廃用身”の反対側にいる

先日、映画「廃用身」を観てきました。
映画が始まって最初にスクリーンに映し出された言葉は、

【廃用身】(はいようーしん)麻痺などにより回復の見込みがない手足のこと

という説明でした。

そして、その回復の見込みがない手足を切断することで、介護の負担を減らし、本人も痛みや重さから解放される。
さらに、その分の血流が脳や内臓へ回ることで認知機能などが改善する――という世界観が描かれていました。

正直、とても衝撃を受けました。

平日の上映だったこともあり、観客の多くは高齢の男性でした。
また、少し若い方も来られていましたが、介護職や福祉関係の仕事をされているのかな、と感じる方も多かったように思います。
きっとこの映画は、介護や高齢化社会を遠い話ではなく、ご家族(相方さん)やお仕事など、身近な自分ごととして感じている人ほど気になる作品なのだなと感じました。

映画の中で印象に残った言葉がありました。

「サービス業として」

という言葉です。

介護の負担を減らす。
本人を楽にする。

どちらも一見すると正しいことのように聞こえます。

でも、どこかで「本人のため」と「周りが楽になるため」の境界線が曖昧になっていないだろうか。
そんなことを考えさせられました。
見栄えのために義手や義足をつけていたり(皆さんの前で打ち明けて取り外しますが)、認知症の方が(徘徊を防ぐために?)やけどをしたとして両足を切断したり。
映画だからこその極端な表現かもしれません。
体が軽くなった、認知が改善した?というのも表現されていましたが、それでも、「効率」や「負担軽減」を追い求めた先に何があるのかという問いを突きつけられた気がしました。

私は訪問マッサージの仕事をしています。

高齢者の方に対して、「筋力をつける」というよりも、「筋力を維持する」「関節が固まるのを防ぐ」「少しでも動きやすい状態を保つ」ことを大切にしています。

だから映画を観ながら、

「私は真逆のことをしているのかな」

とも考えました。

回復が難しい手足でも、

少しでも動くように。
少しでも痛みが減るように。
少しでもその人らしく生活できるように。

そんな思いで施術をしています。

もちろん、すべての方が劇的に良くなるわけではありません。

それでも私は、

「動かないから不要」

ではなく、

「動かなくても大切な身体の一部」

だと思っています。

映画の中には、家族から虐待を受けている男性も登場しました。
もちろん虐待は許されることではありません。
ですが私は、

「この人は昔、どんな家族だったのだろう」

とも考えてしまいました。

家族を顧みなかったのかもしれない。

人に頼るのが苦手だったのかもしれない。

感謝を伝えられなかったのかもしれない。

あるいは、横柄な態度を取っていたのかもしれない。

介護の現場では、今の状態だけでなく、それまでの人生や家族関係、人柄が見えてくることがあります。
介護は、その人の人生の続きなのだと思います。

この映画を観て、改めて感じたことがあります。
人の価値は、「どれだけ動けるか」だけでは決まらないということです。

年齢を重ねても。
病気になっても。
身体が思うように動かなくなっても。

その人には、その人の人生があります。

訪問マッサージの仕事を通して私が大切にしたいのは、身体を治すことだけではありません。
その人が少しでも快適に、自分らしく過ごせる時間を支えることです。
24時間、介護に携わるご家族さんや介護スタッフ、めちゃめちゃ大変だと思います。
ご家族さんは、少しでも負担を軽くできるように援助や補助を気兼ねなく使えるように、
介護スタッフさんも不足しないように、待遇や条件をもっと良くできたら・・・と浅はかながら思ってしまいます。

映画「廃用身」は、身体のことだけでなく、「人としての尊厳」について深く考えさせられる作品でした。
私自身どのように希望するだろう、私の身内ならどうするだろう・・・
観終わったあとも、ずっと心に残る映画でした。